DMZ(後編)

 
ラーメンを食いに行かないか、と中在家先輩に誘われた。
時間は午前10時少し過ぎ。新聞配達のバイトから帰ってきて、テレビを見ながらごろごろのつもりががっつり眠ってしまった。眠気まなこで首をめぐらすと中在家先輩と目があい、開口一番に言われたのが先の言葉である。
「なんでですか?」
俺は寝ぼけていたのだと思う。
「…理由がいるのか」
中在家先輩は首すら傾げずにぼそりと言った。
たしかに、ラーメンを食べに行くのに特別な理由は必要なさそうだ。
 
 
立花とかいう男は朝早くから姿を消していたので、二人で家を出た。空はいかにも梅雨といった雲行きで、何時間か後には降りだしてもおかしくないといった様子だったので、俺は傘を持った。コンビニで傘を買うのは無駄遣いの骨頂だ。中在家先輩も俺にならう形で傘立てから大きな黒い傘を手にとった。
先輩の言うラーメン屋はうちから二駅離れた場所にあり、電車に乗ってもいい距離だったけれど、電車代を浮かすくせのついてる俺は歩いて行くことを提案した。目的地までの近道を知っていたし、何より先輩が散歩を好きなことを知っていた。
そうして二人してとりとめもない話をぽつぽつとしながら辿り着いたラーメン屋は、早めに出てきたにも関わらずすでに店の外まで列ができていた。
先輩は黙って最後尾についた。こういった行列のできるラーメン屋を彼が知っていて、しかもわざわざ行こうと言い出したという事実は、とても意外なもののように思えた。もちろん彼だって二十代前半の若者だったけれど、どことなく違和感があった。咀嚼するまでもなく答えはシンプルで、高校生の食欲を思ってのことに違いない。
開店したばかりなので、列の進みは遅い。住宅街が近いせいか、家族連れやカップルが多いのも原因のひとつだろう。沈黙を気にする人ではないし、それで気まずくなるような間柄ではなかったけれど、もし一人だったら彼はこの店を素通りするか、あるいは鞄から文庫本を取り出して読み始めているだろうと思うと、なんだか申し訳ない気持ちになった。
気まずさのせいでは決してないが、俺はふと話を始めていた。俺が彼の家に飛び込むに至った事の顛末の話だ。
強制力が働いたわけではない。その証拠に、この話をするまでに、俺が居候を決めてからすでに一週間以上が経過している。なぜ急に話そうと思ったのかは自分でもわからない。ただ、ふと急に彼に話したいと思ったのだった。彼にはそういった空気があった。特別な理由もなく弱みをさらけ出してしまえるような。だからこそ、俺や立花みたいなろくでもないやつを引き寄せてしまうともいえる。
とにかく、先日、三者面談があった。高三のこの時期なのでもちろん進路相談だ。進学か就職かで迷わず就職と答えたら、土井先生がすぐさま反対した。担任の先生も待ってましたとばかりに大きく頷いた。
「成績は悪くないし、今から頑張れば大学進学も十分狙えますよ」
「…俺もう勉強したくないし」
へらっと笑ったが、土井先生の顔が曇っているのは見なくてもわかっていた。
帰り道でも、土井先生の声色は静かだった。
「お前が本当に進学したくないなら私だってなにも言わない。何度も言ってるが、授業料のことは気にしないで欲しい」
実は高校に入る前にも俺は高校進学をしぶっていて、その時はアルバイトをしてもいいという条件が附されたので進学をしたのだった。その時からずっと、土井先生からは口を酸っぱくして大学か専門学校までは行きたい道を行ってほしいと繰り返されていた。俺はまたへらりと笑ったと思う。
家に着くと、土井先生が夕飯の支度を始めた。土井先生は一食に食材を使い過ぎてしまうきらいがあったので、阻止すべく俺も台所に並んだ。メニューを確認し、玉ねぎを取ろうと玄関へ向かったところで、見慣れない紙袋が置かれているのが目に入った。胸騒ぎがして手に取ると、女性の写真の挟まったファイルが入れられていた。プロフィールなども書かれている。
玄関に行ったきり戻ってこない俺に気づき、土井先生が慌てたように後ろに立ったのがわかった。
「なんすか、これ」
「校長先生に紹介されてね」
いつもの俺だったら、このご時世にお見合い写真ですか?令和の時代に昭和的お見合いっすか?なんて揶揄できたと思う。
「断りづらくて困ってるんだ」
「したらいいじゃないすか。美人だし、いいとこのお嬢様っぽいし」
恥ずかしそうに困り顔で笑う彼を、いつもならなんでもないと流せた。でもその日は日が悪かった。
「そうですよね。お見合いなんてしてる暇ないですよね、土井先生は」
「…え?」
彼はピンときていないようだった。なんでこの人はこんなに善良なんだろう。
「どこの馬の骨とも知れないこぶがくっついてたら、お見合いなんてできないですもんね」
そうして初めて、彼の顔から笑みが消えた。
「やっぱり俺、高校卒業したら就職してここ出ていきます。その方が邪魔がないでしょう」
みるみる悲しそうな顔に変化していくのを見ても、なぜか言葉が止まらなかった。
「俺なんて、はじめから引き取らなければよかったんですよ。そうすれば俺だって進路なんかで悩まなくてよかったんだ」
言ってからすぐにスニーカーに足をつっかけ、家を飛び出していた。
彼はものすごく傷ついた顔をしているはずで、それを確認するのが怖かったのだった。
 
 
「悪いのは俺ですよ。わかってますよ」
責めるでも慰めるでもなく、先輩は無言で聞いていたが、やがて
「…高卒よりも大卒の方が一般的に生涯年収は多い」
ぼそりと言った。いかにも正論だと言うように。俺は椅子からひっくり返りそうになった(話し終える頃にはすでに店内で食券を買って席についていた)。
「知ってますよ。でもそういうことじゃないでしょう」
「…」
「あの人優しいから、絶対邪魔だって言わないでしょう。でも、他人の俺がいつまでも甘えてていいわけがないじゃないですか」
先輩が何も答えなかったのは、ちょうど注文の品がテーブルに置かれたからではなかったと思う。たっぷりの野菜が盛られているタイプのラーメンだった。スープ中の大量の背脂が極太の麺に絡んでいる。俺達はお互い無言で麺をすすった。
 
 
店を出ると、予想通り雨が降っていた。内心誇らしい気持ちで傘を開き、元来た道を戻った。
雨のせいか寿命なのかわからないが、アスファルトに躑躅の花が散り始めていた。ドクダミの花の咲く公園を横目に足早に歩く。
もうすぐ家、という角を曲がったところで、先輩はぴたりと足を止めた。なんだろうと見上げると、先輩も俺に視線を合わせた。
「きり丸。お前は先生が邪魔か?」
唐突な問いだった。が、俺はすぐさま、まさか、と首を横に降った。脊髄反射のようなものだった。
「お前は、土井先生の気持ちをきちんと聞いたことがあるか?」
「あの人言わないだろ、本当の気持ちなんて」
「そうだろうか?」
先輩の視線の先を追うと、家の前に見慣れた色があった。なんだろうと思ったら、土井先生の傘だった。少し遅れて土井先生がこっちを向いて、目が合った瞬間にくしゃりと顔を歪ませて笑った。何もなかったわけがないのに、何事もなかったかのように。
この人は本当に馬鹿じゃないかと思った。何も起こるはずのなかったちっぽけなガキとの間に、わざわざ面倒事を起こして傷ついたりして。
家の前に立つ彼を、俺はじっと息をひそめて見ていた。
思えば、俺はいつでも彼が動くのを待っていたような気がする。遠ざかることはあれど、近づくことはないと思っていた。でも彼が近づいてくるはずがなかった。これ以上ないくらいにすでに近づいていたのが彼だった。待っていたのは彼の方だった。そしてそのことに、幼稚な俺以外は全員気づいていた。
動かない爪先の向く方向で、彼が微笑んでいる。
俺が手を伸ばせば、何か変わるだろうか、変われるだろうか。