The air near my fingers

 
※コミカライズネタを含みます。
 
 
 
彼女と喧嘩して部屋から閉めだされてどれくらい経ったかわからない。途方に暮れて廊下で足を抱えていると、足音がエレベーターの方から聞こえてきて、続いて変な声がすぐ近くで聞こえた。悲鳴をすんでのところで飲みこんだような音だ。見ると、女の子がすぐ傍で固まっていた。手には重そうなスーパーの袋を抱えていて、いかにも帰宅途中の日常と言った体だ。そして非日常の象徴のような男がパンツ一丁で廊下に体育座りしているのを凝視している。そらびっくりするやろなぁ、と簓はまるで人事のように思う。
 
本当は素通りしたかったのだろうが、廊下は狭く、運の悪いことに彼女の部屋は簓を超えた先にあるようだった。女の子の顔は絶望を形作っていたが、どこか別の色が混じっているのも見えた。それはいくら屋根の下とはいえ、寒い中に半裸の男を放り出しておけない人の良さとでも言おうか。その色を簓は見逃さなかった。
 
「彼女と喧嘩して部屋から追い出されてしもて…帰ろうにも、服も財布も家の鍵も全部部屋ん中や。長いことチャイム鳴らしても出てくれへんし、大声で歌ったら近所迷惑やーって荷物だけでも放り出してくれへんかと思ったんやけどなんぼ歌ってもやーっぱり出てきてくれんし…助けてくれへんか」
 
涙ながらにまくし立てて膝にすがりつくと、女の子は後ずさりしつつも、ひとまずうちに来ますか、と引き攣った顔で言った。その時に場違いにも思ったのは、関東の人間なんだなということだった。だからといってどうということもないので、簓は意気揚々と女の子の家に上がり、すすめられるがままにシャワーで冷え切った体を温め、洗濯機の上にいつのまにか置かれていた男物の部屋着に袖を通した。もちろん、服の出所を尋ねるような野暮なことはしなかった。
女の子はキッチンで夕食を作っていた。押しかけておいて何だが、部屋に見知らぬ男がいるというのに随分マイペースなのだった。手伝おか?と冗談めかして聞くと、じゃあおなべにおみそ溶いて下さい、大さじ三くらい、なんて的確な指示が返ってくるので、なんだか面白くなってきてしまった。
 
「味噌汁をたのミソうー、って思っとったよ」
「え、おやじギャグですか?」
「何作ってんの?」
「ええと今日は、鯵の干物、ネギと豆腐の味噌汁、なます、切り干し大根の煮物、ほうれん草のお浸し、ですね」
「は?朝ごはんやん!」
「失礼ですね。れっきとした夕飯です」
「じゃあ老人ホームの食事やな」
「文句あるなら食べなくていいですよ」
「え、俺のもあるん?」
「え、食べないんですか?」
 
女の子は包丁を持ったまま驚いた顔で振り返った。キッチンが狭いので、自然と見上げられる形になる。なんとなく、柔らかそうな女の子の頬と冷たく光る刃物を交互に見た。
 
「だって鍵もお財布もないんでしょう」
「せやな」
「お金は貸せるとしても、不動産か大家に言って合鍵を借りるとしたら、明日の朝にならないと」
「たしかに」
「ということは、うちに泊まるしかないですよね」
「まあそうなるな」
「じゃあ、お客さんをもてなさないわけにはいきませんよね」
 
よっ、大統領!と簓はいよいよ声をあげて笑ってしまった。
それが女の子、花村葛葉、と知り合ったいきさつだった。ちなみに簓の荷物と服はゴミ捨て場に捨てられており、翌朝葛葉のファインプレーによりゴミ収集車に持っていかれるすんでのところで無事回収され、事なきを得たことも添えておく。ただ、服はカッターでびりびりに引き裂かれていたので怖くなってそのまま捨てた。
そこまで(元)彼女に恨まれるに至った原因について、葛葉は追及してこなかった。知っていたら、葛葉のもてなしはなかったかもしれない。一週間後、(元)彼女に鉢合わせるリスクを物ともせず一宿一飯の恩だと有名パティスリーのケーキを掲げた簓が再び押しかけてくることもなかっただろうし、合鍵を勝手に作られて居座られてしまうということもなかっただろう。
俺の浮気が原因やったなんて口が裂けても言えんなぁ、と簓は思った。三人とも可愛いかったのだから、仕方ない。
 
 
 
 
 
 
 
 
葛葉の家にはテレビがなかったので、当然のように彼女は簓がメディアを賑わす駆け出しのピン芸人であることは知らないのだった。大学生で、出身は埼玉だが、薬剤師を目指してなぜかこんな西まで来てしまったのだそうだ。
彼女は簓がこれまで関係を持った女たちとはまったく違っていた。キレイ系とかカワイイ系とか、キツネ顔とかタヌキ顔とか、身長が高いとか低いとか、スタイルがいいとかぽっちゃりとか、外見の話ではない(何ならどのタイプも万遍なくコンプリートされている)。簓のファンではないという点も違う。簓はファンだけは食わないと決めているので、そういう意味では同類であった。何が言いたいかというと、葛葉は簓に対して決して科を作らなかった。
 
彼女が拵える献立が物語るように、彼女からは優等生の雰囲気が漂っていた。なのに、どこか抜けていた。ずれていた、と言った方が適切かもしれない。音で例えるなら、シャープやフラットでは収まらない致命的なずれだった。友達がいるのか心配になったこともあるが、ほろ酔い上機嫌で帰宅することもそれなりにあったので、まあまあ友人関係はうまくいっているように見えた。
勝手に家に上がり込んで漫画雑誌を開きつつラジオを聴いている駄目人間を見ても、帰宅した葛葉は一度だって動揺も憤慨もしなかった。深夜ロケ続きでできあがった目の下のくまを見て、ちゃんとごはん食べてますか、と深刻な顔をした。そしていつも通りの老人ホームのような料理をテーブルに並べてくれるのだった。
 
「相変わらずじじばばの食事やなあ」
「何言ってるんですか。ちゃんとカタカナの料理があるじゃないですか」
「…どれ?」
「ホイコーロー」
「回鍋肉は漢字やし、要するに野菜と豚肉の甘味噌炒めやん」
「まあ、そうとも言いますね」
「ほら!」
「家庭的って言ってくださいよ」
「それやったら聞こえはええなあ。まるで夫婦みたいやわ」
 
葛葉はあからさまに困った顔をした。反応に困っている、というやつだ。そこで頬を赤らめるような気配があったとしたら、こちらだってそもそもそんなことは言っていない。
予想通りやな、と思いつつも、でもいつもやったらそういう雰囲気にとっくになってるのに、という気もしていた。思えばいつも行動を起こすのは女の方で、簓はただ待っているだけでよかった。
昔からこうだったわけではない。以前はむしろ情事の気配には及び腰であったし、矢印が自分に向いているとわかった途端一目散に逃げたりもした。両親のこともあり、異性間の結びつきにさしたる思い入れもなかった。
ではなぜ唐突に性的退廃期に突入してしまったかといえば、その境界線はくっきりと自覚していた。自暴自棄になっていたといっても差し支えない。あの雨の日以来、自分でも愕然とするくらい他人との関わり方は変化を遂げていた。
 
そんなことはともかく、葛葉である。こちらから押せば絆されるんじゃないかという気はなんとなくしていた。手を引いてキスをして、口八丁で囁きながら抱きしめればいい。相手にその気があってもなくても関係ない。
 
「もしかして簓さん、また彼女にふられました?」
 
豆腐の味噌汁を覗き込んだまま珍しく黙ってしまった簓を見て、葛葉が眉をひそめた。簓はぱっと表情を変えた。
 
「うん。いまフリー。大安売り中」
「好きな人はいないんですか?」
「おらん。みんな遊びや」
「少なくとも発散できる相手がいるのはいいことですね」
「そうか?」
「まあ、遊ばれる相手からしたら、たまったものではないですかね」
 
彼女の目が簓の背後、壁の向こうを見るような目になったのは、二部屋隣に住む女性のことを思ってのことかもしれない。
 
「俺と付き合う相手やってそう変わらへんよ」
「そうなんですか?」
「せや。だって、かわいそうやろ。俺と付き合ってもいいことなんかあらへんし」
「なんだか今日はネガティブですね、簓さん」
「俺は最低な男なんや」
「まあ、それは…」
最初から知ってますが…と彼女は呟く。
 
「せやけど、最低やけど、俺な、もう好きな人を傷つけたくないねん」
 
以前人を傷つけたことが?と深掘りされることを意図しての発言であった。今日はどうにも喋り散らかしたい気分だったからだ。
反して、きょとんとした顔が簓を迎えた。
 
「人を傷つけずに生きていくことなんてできるでしょうか」
 
彼女は至って真面目な顔をしていた。簓が言葉に詰まったのは言うまでもない。驚いていたのだ。
 
「…じゃあ葛葉ちゃん、俺に傷つけられてもいいん?」
 
彼女は少し考えた後、
 
「嫌ですね」
 
あっさりと答えた。
嫌なんかい!とつい脊髄反射でビシッと突っ込んでしまう。きれいに指先を揃えた手まで添えて。
一方で、彼女はまるで笑う気配がなかった。言葉通り、じっくりと考え込むようだった。視線は少し斜め上を向いていたが、やがて彼女は口を開いた。「少し違いますね」
 
「正確に言うなら、わたしが簓さんのせいで傷つくと、簓さんが傷つきそうだと思ったんです。わたしは簓さんが傷つくのは嫌なんです。だから、簓さんに傷つけられたくないんですね」
 
茶化しは喉元まで出かかったが、珍しく口から飛び出ることはなかった。なんだか胡散臭い宗教家の話を訊いているようだ。危うく自身が投げかけた質問が何だったのかを忘れそうになった。揃えられた指先は明らかに行き先を見失っていた。
 
「…葛葉ちゃん、俺のこと好きなん?」
 
なんとかして絞り出した答えは、浮かれた言葉のはずなのに、むしろ堅実で夢のかけらもないものといった音で響いた。彼女は眉をひそめた。
 
「なんでそうなるんですか。今は傷つけるとか傷つくとかの話でしょう」
「でも俺のこと好きやから傷つけたくないんとちゃうん?」
「どうなんでしょう」
「素直やないなぁ」
「好きじゃない人でも傷つけたくないですよ、わたしは」
 
かすかの動揺も混じらない言い切りの言葉であった。彼女のまっすぐな声色は、自分をどうしようもない馬鹿であるように思わせる。
 
「でも」
「ん?」
「簓さんのことは好きですよ」
「そうなん?!」
 
今日は百万回驚くか、あるいはずっと驚き続けている日であるらしい。出会った日の葛葉のように若干後ずさりながら、え、そうなん?と混乱する頭で繰り返す。
 
「ええ、ふつうに」
「ふつうって、何?」
「ふつうに考えて好きでもない男の人を家に上げるわけないじゃないですか」
 
大切なことを告げたはずの彼女は、なのにはにかむこともなく、至って平生通りだった。むしろ、馬鹿なんですか、といいたげな雰囲気なのだった。いや、まあ、そうかと、ほとんど押し切られる形で頷く。彼女が溜息までつくものだから、叱られた気分になりしゅんと肩を落としてしまう。しかし腑には落ちない。待て待て、本当に悪いんは俺か?
途方に暮れた気持ちになって、そうかぁ、と簓はもう一度呟いた。そして、あっ、と今思い出したように顔と声をあげた。実際、今思い出した。
 
「でも俺、来月から東京に行くんやった」
「あら、随分急ですね」
「そうそう、今日はそれを言いに来たんやった」
「そうですか。それは寂しくなりますねぇ」
「なんでか知りたい?」
「教えてくれるんですか?」
「えーどないしよかなー」
「ほら」
 
小さく笑い、彼女は箸を手にとった。いつも通りのきれいな持ち方で、丁寧に野菜を口に運ぶ。それ以上の追及がなかったので、自然、簓も倣うかたちになった。すっかり冷めてしまったご飯茶碗を手に取る。
期待していた言葉が手に入ったというのに、感触は達成感から程遠かった。
うすっぺらなプライドが満たされたからって、それが何?
誰かに耳元で囁かれた気がして、簓は頭を振った。
 
 
 
 
 
 
 
 
空になった食器を洗い場に下げ、簓はベランダで煙草を立て続けに二本吸った。そして部屋に戻ると、葛葉がキッチンに立ってなにやらごそごそとやっているのが目に入った。何やってるん?と聞いても、ちょっと黙ってて下さい、とつれない返事が返ってくる。そっと足音を忍ばせて部屋を横切ろうとすると察したのか、こっち来ちゃだめですよ、と釘を刺される。挙げ句、ぴしゃりと扉を閉められた。
 
果たして彼女が持ってきたものは、簓の大好物クリームソーダであった。しゅわしゅわと泡を立てる緑に、丸く成型しようと努力の痕跡の残る不器用な白。そんなもんこの家で作れたんか、と驚きの声を上げると、しかもこれ、ほろよいのクリームソーダ味なんですよ、と得意げに彼女が言う。
 
そういえば、アルコールがこの家で振る舞われるのもこれが初めてである。気づいて、簓はなんとなく驚いてしまった。それは些細な事実だった。明日には容易く忘れ去られているだろうし、東の土地を踏んでいるであろう来月の自分であれば間違いなく思い出すこともないだろう。そんな軽いものだった。でも彼女が簓の好物を覚えていて、酒を酌み交わす日のことを、忘れたくないなと簓は唐突に思った。覚えていたいとは違う。どこか卑怯めいた思いだ。
 
「お餞別です」
 
にこりと笑う葛葉はまっすぐで、やはりどこかずれているのだった。シャープやフラットのような半音では収まりきらない、致命的なずれだ。
あの雨の中の苦痛に満ちた表情が目の前をちらついた。最低だと思いながら、簓はゆっくりと手を伸ばした。