ペイン・レイン(後)

 
※ぬるいですが人の死の描写があります。
 
 
翌朝、見知らぬ天井とベッドサイドテーブルに置かれた紙幣を見た俺を襲ったのが純度100%の後悔だったことは言うまでもない。
その日が平日で仕事が控えていたのが幸いした。痕跡の残る室内から目を逸して、慌ただしくその場を立ち去った。そしてそのまましばらく忘れた。というより、自己嫌悪の念から考えることを放棄した。

しかし数日後、俺はある違和感に立ち戻っている。どうして彼女はいきなり歌のことを口にしたのだろうか。あまりに唐突すぎた。俺が生前の兄貴の好きな歌を知らなかったといえばそれだけだが、どうにも合点がいかないのだった。
ある時思い立ち、話の記憶を頼りに、職権も乱用しつつ彼女の行方を探してみたりしたこともあるのだが、笑ってしまうくらいになんの足取りも掴めなかった。ナゴヤのスクールカウンセラーのリストにも、彼女らしき名前は一切見当たらなかった。対象を中部地方一帯に広げてみても結果は同じだった。冷静に考えればわかることだが、あの日彼女の語ったことが真実である保証はどこにもないのだ。そのひらめきだけが重く心臓を掴んで離さなかった。
 
 
 
 
 
 
 
季節が四回変わり、また兄貴の命日が巡ってきた。そうしてまた墓地に向かった俺の前に、花村はなんのひねりもなく立っていた。拍子抜けするくらいだった。
時刻は正午近く。つまり俺は例年通りの墓参りで、彼女が俺に時間を合わせたということになる。雨は降っていなかったが、彼女は去年と同じ華奢な柄の傘をさして、兄貴の墓前に佇んでいた。真夏ほどではないが、少し陽射しの強い日だった。晴雨兼用の傘だったんだな、と俺は的はずれなことを思った。

墓地を出て、駅に程近い古びた喫茶店に入り、それぞれコーヒーとサンドイッチを注文した。マスターがテーブルを去ると、俺は煙草に火をつけた。花村は窓の外をぼんやりと眺めていて、俺はその横顔に焦点を合わせていた。あの夜、首筋に触れた冷たい指先と唇の記憶が蘇り、熱をふるい落とすように煙を吐く。一体あんたはどういうつもりであんなことしたんだ。聞きたいことは色々とあるはずだった。なのにいざ本人を目の前にすると、どの言葉もこの場には不適切のような気がしていた。
やがて彼女は鞄から何かを取り出すと、机の上に置いた。年季の入ったCDだった。確かめずとも、それが兄貴のCDであることは明らかだった。

「今日は、これを返そうと思って来たの。実はずっと借りっぱなしだったから」
花村はばつが悪そうに笑ったが、いらねぇよ、と俺は吐き捨てた。
「兄貴との思い出の品なんだろ。あんたが持っとけよ」
花村は口をつぐんだ。ぎゅっと唇を固く引き結んでいたので、何かを言おうと考えを巡らせているのだとわかった。
しばらくして、いいえ、と前置いた彼女の声は震えていた。
「わたしはこれを持つ資格なんてないの」
「資格?」
「わたし、あの人の彼女じゃないから」
驚いて、何の言葉も出てこなかった。
手元から灰がぼろりと机の上にこぼれて初めて、自分が長いの間動きを止めていたことに気がついた。
「…言ってる意味が、よくわからねぇんだが」
灰皿に吸い殻を押し付けながら見た彼女には、あの日葬式に現れた少女の面影が確かにあった。別人というわけではなさそうだ。
「わたしの片思いだったの。彼が亡くなる少し前に告白して、あっさり振られて」
なのに、母親からの折返し電話で素性を尋ねられ、恋人だと嘘をついた。気づいたら口から出て止まらなかった、と。
たまらず俺はもう一本煙草を咥えた。火をつけて、ひとつ呼吸をするだけの沈黙が流れた。
「…やっぱりよくわからん」
「わたしもそう思う。ただの友達だって最初から言えばよかった」
「なんで言わなかった?」
「わからない。でもどうしてかその時は、友達じゃ彼の死を悼む権利がないと思った。あっさり振られて、そのまま勝手にいなくなられて…悔しかったのかも、しれない」
子供にだって女のプライドはある。伏し目がちの視線がそう語っていた。
「じゃあ、去年話したことも全部嘘か?」
「ううん、彼女だったってこと以外は全部本当」
「カウンセラーってのは?ナゴヤの学校関係者のリストに、お前の名前はなかったぞ」
「あれ、わたし九州に住んでるって言わなかった?」
「…覚えがねぇな」
「あれ、ってことはもしかして、わたしのこと探してた?」
目を瞠った彼女は、思いつきもしなかった、とでもいうかのように瞬きを繰り返す。なんで?と茶色の瞳は明らかに問いかけていたが、俺は目を逸らしてフィルターに噛みついた。ほっとけ、という意思表示だった。
彼女はなおも不思議そうに首を傾げていたが、やがて小さく溜息をついた。
「でも、振られてからもいい友達だったと思う。たぶんね。だから本当はもっと早くに言うつもりだったの。それこそ、お葬式でもずっと言おうと思ってた」
清めの席で不躾な言葉をぶつけた俺を見上げていた、彼女の物言いたげな顔が脳裏をよぎる。
彼女は再び口を結んだ。マスターがやってきて、注文の品をテーブルに並べ始めたからだった。
湯気を立てるコーヒーカップに俺は口をつけたが、驚くほど味がしなかった。マスターが悪いわけではない。理由は明白だった。
一方で机の上に置かれた彼女の手は固く握りしめられたまま、動く気配を見せない。
「その後…二十六歳の時に結婚したんだけどね」
あやうくコーヒーを吹き出しそうになった。
「待て、お前、既婚者か」
「正しく言うなら未亡人ね」
彼女はけろりと言った。
「三年前、夫は浮気相手と旅行中に車の事故で死んだの」

お互い子供を望んだが、一向に子供を授かる気配がなかった。不妊治療も五年続けたが結果は変わらず、辛く苦しい治療の日々に終止符を打った。これからは二人で生きていこう。そう思ったが、気づかないうちに二人の間には深い溝が出来あがってしまっていた。仕事だといって、夫は家にほとんど家に寄り付かなくなっていた。
駆けつけた病院で、浮気相手の若い女の子は泣きながら花村に土下座をした。その娘は体のどこかの骨を一本折っただけで生き残っていた。安置室の夫は布がかけられ顔が見れないようになっていた。めくろうと手をのばすと、やめた方がいいです、とその場にいた誰かにやんわりと止められた。ごめんなさい、ごめんなさいと、冷たい室内に啜り泣く女の声がBGMのように響き続けていて、その間ずっと頭に浮かんでいたのは、恋人と偽った少年の棺だった。あの日も結局、彼の顔を見ることは骨になるまで叶わなかった。床に頭をこすりつける女のつむじを見ながら、その先にある煤けた頭蓋骨を思い出していた。

「わたし、泣いたり怒ったりしなかったのよ。その子に慰謝料を請求したりもしなかった。お通夜とお葬式に来てもいいとも言ったの」
来なかったけどね。花村は小さく笑う。
「その子のこと、ただただ羨ましいって思った。愛されていたから、あの人の死を自分の痛みとして生きていけるんだ、って」
「…」
「でもわたしはまた何者にもなれなかった。昔、嘘をついた罰なんだと思った」

「…馬鹿か」
熟考の末に発せられた言葉といえば、そんな優しさのかけらもない一言でしかなかった。彼女は相変わらず笑っていた。しかしそれは先程よりも輪をかけて空虚に映った。
「そんなモンに因果関係なんざねぇよ。まさか、こんなふざけた懺悔をするために来たわけじゃねぇだろうな」
「そのまさかだと言ったら?」
「…馬鹿が」
花村は目を伏せると、また鞄から何かを出した。自分の分の手つかずの食事の代金だった。
「ごめんなさい。まあ、謝ったからって、何がどうなるものでもないんだけど」
自己満足みたいな?そう力なく笑って、テーブルの上に小銭を置くと、彼女は立ち上がった。そして驚くほど軽快に去ろうとする。
「…待て」
混乱する俺の横で、花村は意外にも素直に足を止めた。止まらなければまた腕を掴んでやろうと右手を持ち上げていたが、無用であった。ただ行き場を失って奇妙な動き方をしただけだった。
呼びとめたのはほとんど本能的なもので、このまま帰してはいけないと強く思ったのだった。かといって、なにか明確な意図があったわけでもなかった。
少し考えて、財布から自分の名刺を取り出し、マスターに声をかけてペンを借りた。そうして私用携帯の番号を書き加えたそれを、彼女に差し出した。
「何かあったら呼べ」
彼女は目を見開いて、紙片と俺の顔とを交互に見た。
「仕事の依頼でもいいぞ。特別に割引してやる。次の旦那が浮気したら、他の弁護士じゃ比べもんにならんくらいの慰謝料取ってやる。相手の女からもな。任せとけ」
彼女は口を開きかけたが、声にならなかった。震える指先がスカートを握りしめた。短気な俺はその手を取り、指をこじ開けるようにして名刺をねじ込む。花村は手の中の紙を信じられないといったように眺めながら、おずおずと口を開いた。
「…獄さん、話きいてた?わたし、嘘ついてたのよ」
「仕事で関わるやつらの虚言に比べりゃ、ずいぶん可愛いもんだ」
「わたし、面倒くさい青春拗らせ女なのよ。しかもバツイチ」
「依頼人にも似たようなやつはいるさ」
「獄さん、お人好しとか、お節介って言われることが、多いでしょう」
揶揄ではなく、確信をもって発せられた声だった。
「ねぇよ」
吐き捨てたが、しかしすぐに目を逸した。ふたつの少年の顔が浮かんだからだった。面と向かって言われたことはなかったが、それでも思い当たる節と自覚ならいくつかあった。
都合よく、目を逸した拍子に古ぼけたCDが目に入った。色褪せたケースはそれでも埃ひとつなく、まるで何かの象徴だった。
「これも持ってけ。もうあんたのもんだ」
右手に名刺、左手にCDを押し付けられた花村は、なおも途方に暮れた顔をしている。
「何かあったら呼べよ」
いいな、ともう一度繰り返す。
やがて彼女はゆっくりと鞄にそれらをしまった。そして今度こそ去っていった。カランコロンというレトロなドアベルの音が聞こえて、後は調理場から音がかすかにするだけだった。

俺は再びコーヒーに口をつけた。すっかり冷めてしまったそれは、しかし先程よりはずいぶんましな味になって喉を伝った。反対にサンドイッチは口をつける気力すらも湧き上がらなかった。食欲の代わりの何かが胃の中に立ち込めていた。

例えば、彼女のこと。なぜ彼女を呼び止めたのか考える。あのまま店を出た彼女が、大通りに出て車の前に飛び出したり、ビルの屋上からぴょんと身を投げる、などと考えたわけではなかった。救命的な理由ではなかった。むしろ、この女はこのままずっと生きていくのだろうと思った。それは確信に近かった。雨の中、傘もささず、血の混ざる雫を滴らせながら、それでも歩いていく花村の姿は容易に思い描けた。死なない人間が全員幸福なわけでもない。帷のように覆い被さる悲しみの下で、それでも死を選ばない生き方だってある。

罪悪感についても考えた。これは少し当たっていた。彼女は言わなかったが、ここまで彼女が深い傷を負ってしまった原因のひとつには、葬式での俺の一言もあるのだろう。しかし、呼び止めなければと咄嗟に判断したことへの直接の理由ではないような気がしていた。

考えても詮ないことだった。俺は思考を手放し、代わりにコーヒーを飲み干した。そして習慣で煙草を一本吸った。ガラス窓をすり抜けて射し込む太陽の光で、机の上に置かれたジッポーはゆるく熱を持っていた。

そういえば、確信していることといえば、他にももうひとつあった。彼女が墓場に姿を現すのは、今年が最後だろうということだった。
 
 
 
 
 
 
 
会計を済ませて外に出ると、入る前よりも少し気温が上がったようだった。雨の気配ひとつない晴天の空を目を細めて見上げながら、このまま適当にバイクを走らせに行くか、とぼんやり考える。二人の客がどちらも一切手をつけなかったのを見かねて、親切なマスターがサンドイッチを包んでくれていた。どこかで緑の景色でも見れば食欲も戻ってくるだろう。

そう思って歩き出したところで、携帯が鳴った。自分でも情けないくらいに心臓が跳ねるのがわかったが、ディスプレイに表示された名前を見て安堵の息をついた。十四だった。空却が何やらとんでもないことをしでかしたので、一刻もはやく空厳寺に来て欲しい、と泣き喚いている。説明はまったく論理立っていない。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった奴の顔を想像して、頭痛がした。

急速に現実に引き戻されていくのを感じていた。そういえば、今日は連絡すんじゃねぇぞと釘を刺していたような気もするが、指摘するのも最早ばかばかしく感じられ、俺は電話を切って歩みを再開した。悔しいが、予定はあっさり変更されてしまっている。しかし俺は悪い大人なので、馬鹿ガキ共を黙らせたら、この少し表面の乾いたサンドイッチを差し入れだと言ってしれっと渡してやろうと考えていた。おこちゃまに話すには不適切な関係を持った女との間に出された食事を、だ。自分のお人好しっぷりに自覚はあっても、善良な大人であるつもりはさらさらない。

駅前の駐車場へ向かいながら、最後にもう一度だけ彼女のことを考えた。彼女が名刺を取り出し、紙片に書き綴られた番号をダイヤルする。そんな情景を思い描いてみたが、まったく現実感がなかった。なにかあったら呼べというこちらの言葉に、彼女は拒絶もしなかったが、頷きもしなかった。鞄にしまったことを同意の証と捉えられる程シンプルな問題でもない。根拠などなにもないが、もう彼女と会うことはないのだろうという予感だけが、じわじわと胸元に滲み出ていた。

それでも、とふと思う。
どんなに会うのが困難を極めたとしても、それでも、兄貴に会うことほど難しくはないのだ。
足を止めて、空を仰ぐ。俺は早速この思いつきを彼女に伝えたくなっていた。