徒花

 
大晦日であった。
雪が舞うほどではないものの、ここ一週間で一番冷え込む夜だった。葛葉はコートの袖から左手を出し、時計の針が頂上で重なるまでの時間を確認すると、ドラム缶の中で燃え盛る火の方に手を伸ばした。
参拝客で賑わう神社の敷地の一角である。屋台の連なる石畳の道から少し離れた、的屋たちが一休みするための休憩所で、葛葉はベンチに座っていた。客入りは盛況なのだろう、彼女以外に仕事仲間の姿はなく、動くものといえば焚き火の炎くらいのものだった。炎の揺らめく様をなんとはなしに眺めていると、ふいに往来を抜けてこちらに歩いてくる人影をみとめた。
その男の髪は透き通るような銀色をしていた。暗がりから炎に照らされる空間に足を踏み入れると、肌もまた色素とは無縁の透明感を湛えていることがわかった。まるで雪女のようだったが、当の本人はいかにも寒そうに背中を丸めていて、天候に対する不機嫌さを顔面いっぱいに浮かべていた。そして無遠慮に葛葉の隣にどっかと腰を下ろし、ダウンジャケットのポケットから煙草を取り出す。そのまましばらくなにやらごそごそとやっているので、ライターを忘れたに違いない、と葛葉は思った。
「あんた、火、持ってねぇか」
予想通りの言葉に、葛葉は焚き火を指差し、そこに、と笑った。男は苛立ちを隠そうともせずに眉を顰めた。
「あぁ?ざけんな。煙草用の火だよ」
「喫煙所は神社を出て左。火が欲しかったら、そこでお仲間に言って下さいな」
男は露骨に舌打ちをすると、煙草を箱に戻した。しかし腰を上げる気配はない。
「一服しに行かなくて良いんですか?」
「あぁ」
「じゃあ代わりにいいものを差し上げましょう」
葛葉は横の簡易テーブルに置かれた大きめの水筒を取り上げ、紙コップに中身を注いだ。どうぞ、と差し出す。男は怪訝な目で湯気の立つコップの中身を一瞥した。
「甘酒です。うちの屋台で拵えているものですから、味は保証しますよ」
紙コップを男の隣に置くと、葛葉は自分用にも一杯注いだ。両手をあたためながら口をつけ、満足気に息をもらす。葛葉をじろりと見ると、男も紙コップを手にとった。しぶしぶといった様子で、ズズ、と甘酒を啜る。
 
 
 
急に人混みのざわめきが大きくなった。少し遠くで、ごぉんと鐘の音が鳴ったのも聞こえた。近隣の寺の除夜の鐘に違いなかった。
「年が明けたな」
ちらりと腕時計を確認した男が言う。往来の騒めきを目を細めて眺めながら、葛葉も頷いた。
「あいにく喪中なもので、新年の挨拶は控えさせて頂きますね」
「…そいつはご愁傷さまだったな」
「そうですね。父が亡くなったせいで、この1年はなかなか大変でした。でもこうして無事、屋台を出すことができて安心しています。もう何十年と続く格式ある行事ですからね」
「そうか。まあ俺ンとこも似たようなもんだったがな」
葛葉は首を傾げた。
男はぐいと甘酒を飲み干すと、彼女を睨みつけた。
「なに、ここいらを仕切ってる花村組と、火貂組の抗争の話だ」
 
 
 
花村組組長が急逝したのは、去年の初めのことだった。まだ50に差し掛かった年だったが、心不全であっけなく逝ってしまった。組付きの弁護士が読み上げた遺言状には、当時の若頭に組長を継がせるようにと書かれていた。
生前から用心深さで知られていた組長が、有事のためにと遺言状を準備をしておいたことが幸いした…とは、結果的にはならなかった。その遺言を不本意とした派閥がいたからだ。その輩は同調する幹部を数人引き抜いて五星会という新しい組を立ち上げ、みるみるうちに勢力を拡大していった。
すわ下剋上かと思われたが、新興勢力の異常な成長には大概裏がつきものである。五星会は本家打倒に躍起になるあまり、従来ご法度であった薬物売買に手を出していた。
それに目をつけたのが、長く花村組と敵対していた火貂組である。仕入れルートをことごとく潰された挙げ句に幹部はあらかた逮捕、五星会は事実上の解散となったのだった。
もちろんこれで一件落着といくはずもない。幹部を引き抜かれて弱体化した本家花村組の方が、火貂組の真の狙いだった。下っ端同士の小競り合いも含め、抗争は日々激しさを増していった。
火貂組は関東で1位2位を争う一大勢力だが、一方で花村組は第二次世界対戦の前より続く由緒正しい組であり、構成員ひとりひとりの質や地域との結びつきでは決して負けていない。
結果、火貂組のシノギのいくつかが奪われ、花村組組長は逮捕となった。痛み分けとお互い認めたのはつい先月のことで、手打ちの式は年明け落ち着いてから行われることになっている。
 
 
 
葛葉は甘酒を口元に運んだ。そして、空になった紙コップを炎の中にひょいと放り込む。
「手打ちになるならよかったじゃないですか」
ぱちぱちと紙の爆ぜる様をじっと見つめながら、視線もよこさずに言う。
「問題はそこじゃねぇよ」
「どこかに、問題が?」
「すっとぼけんな。花村組組長の罪状知ってっか?拳銃所持と火薬類取締法違反。検問で車漁られて、トランクから見つかったんだとよ。車で武器運ぶなんざ逮捕して下さいって言っているようなもんだ。H歴の武器規制どころの話じゃねぇ」
「…たしかに。なんでそんなもの持っていたんでしょうね」
「組の誰かに嵌められたんじゃねぇか?」
花村組は裏切り者がごっそり抜けて、残った者たちの結束は一層固くなったと聞きますよ?」
「じゃあ、自分でブタ箱に入ったか、だな」
葛葉はくすりと笑った。相手にしていない、というよりも、相手を見下しているような笑い方だ。嘲笑と言い換えても良い。口調も終始どこか愉しげなのだった。
「解せねえことは山程あんだよ」
「例えば?」
「いくらなんでも五星会の薬物売買の情報が漏れんのが早すぎる」
「なるほど」
「それにあの花村組組長に、火貂組のシノギが奪えるとは思えねぇ」
「随分ひどい評価ですね」
「先代はあいつを買ってたようだが、ありゃだめだ。あいつはせいぜい二番手までの金魚のフンだ。これだけの情報を回せる器量はねぇ。反対派がいたってのも納得だな」
「じゃあ、誰かが入れ知恵をしたのでしょう」
「そうだろうよ。問題はそれが誰かってことだな」
葛葉はわずかの沈黙を流した。宙を仰いだので、男の次の言葉を待っているのだということがわかった。
俺が言いたいのはな、と男は前置く。
「先代の組長には娘がひとりいてな。みんなそいつが組長代行になるんじゃねぇかと噂してやがる」
葛葉は、ふふふ、と笑った。一方で男は笑わなかった。
「なるなら、どうなんですか?」
「…やめとけと言うね。極道は幸せにはなれねぇ」
そこではじめて葛葉は男を見た。双眸は見開かれていて、つまり葛葉は驚愕していた。
「極道はいつか自分のしたことの報いをうける」
 
 
 
男の声には侮蔑も挑発も、過去葛葉が一笑に付してきたどの色も浮かんではいなかった。そういえば、男はここに来てから一度も葛葉に敵意を向けていないのだった。そのことに気がついて、葛葉は息を呑んだ。噛みしめるように殊更力をこめて言葉を紡ぐ様は、なぜか父に正座で叱責された幼少期を連想させた。
「…それが目的ですか?」
男は答えなかったが、冗談でないことの証として決して視線は逸らさなかった。
葛葉はしばらく目を瞬かせてから、やがて大きく溜息を吐いた。男は眉を顰めた。一転、冷ややかな視線が男を捉えていた。
拳を握った男を気にもとめず、葛葉は立ち上がる。そして男の方に向き直りながら、やれやれといった様子で腕を組んだ。
「碧棺左馬刻。異例のスピードで若頭まで上り詰めたあなたに興味があった。でも、とんだ買いかぶりだったようね」
「あぁ?」
「火貂退紅と盃を交わしてから日の浅いあなたにはわからないでしょうけど。わたしは生まれてからずっとこの世界にいるのよ」
馬鹿にするなと、視線から指先、髪の毛一本に至るまで、彼女の全身が憎々しげに語っていた。矜持が人の形をとったようだ。左馬刻は喉元まででかかった言葉を飲み下した。
「わたしのシマにたったひとりで来た度胸だけは褒めてあげる」
そうしてあっさりと背を向けたが、決して隙のある動作ではなかった。彼女が往来の方に向かって歩きだすと、物陰から男がひとり出てきて、自然な動作で背後についた。ここに来た時から感じていた気配だった。
 
 
 
 
 
 
花村葛葉の後ろ姿が人混みに消えていくのを見届けたところで、隣に立つ物音を感じた。
「おい、火ぃ寄越せ」
確認するまでもなく銃兎だった。銃兎は自分の煙草に火を付けると、そのままライターを左馬刻の方に放った。
深々と吸込む。赤い先端から朧げな灰色の細い線が立ちのぼるのを、なんとはなしに眺めた。
「いいのか?」
「あぁ?」
「とぼけんな。火貂にはあの女を懐柔してこいと言われてきたんだろ」
「てめえも見ただろあの女。どうしたってまるめこまれるようなタマじゃねぇだろ。オヤジだってそれは織り込み済みだよ」
銃兎は肩をすくめた。純粋な同意の仕草ではなかった。目を凝らすまでもなく、口元には嘲笑が浮かんでいる。そもそもお前にそんな器用なことができるわけがないしなと言われた気がして、舌打ちをした。
そんなこと言うためにこそこそつけて来たのかよ、と噛みつこうとして、馬鹿馬鹿しさを感じて代わりに煙草に口をつけた。大方、情報の臭いを嗅ぎつけたのだろう。花村組次期組長代行を間近に見られる機会はそう転がっているものではない。
「とはいえ、意外だったな」
「…あ?」
「お前、極道に入ったことを後悔してるのか?」
左馬刻は答えず、煙を吐き出した。銃兎も銃兎で、特に答えを期待したわけではないのだろう。とっとと帰るぞ、と左馬刻を睨んだ。「こっちはすっかり冷え切ってんだよ」
勝手についてきたんだろうが、と吐き捨てた左馬刻は吸い殻をドラム缶に放り込み、立ち上がった。そして、爆ぜた炎を訳もなく見つめる。何故か脳裏に浮かんだのは、彼女の姿だった。手打ち式に現れるであろう、彼女の姿だ。髪を結い、着物姿で現れる、彼女の姿。
「…どいつもこいつも」
気づけば呟いていた。銃兎は訝しげに振り返る。
「どいつもこいつも、なんでもっとシンプルに生きらんねぇのかね」
銃兎の方は見なかった。お前も似たようなものだと、陰気な視線を投げかけられるのはわかっていた。