繭の中で

※少しですがガイドブック特典CDドラパの内容を含みます。
 
 
 
入口の方から音がして、顔を上げると葛葉が店に入ってくるところだった。
「外、すごい雨よ。スコールみたい」
彼女の口から語られるまでもなく、彼女の左手の閉じた傘から滴る雫が外の様子を表現していた。この店は地下にあるので、まったく気づかなかった。
俺は、あぁ、とか、そう、とか、さぞかし張りのない声が出たと思う。記憶を辿るまでもなく、営業の性として身に付いた習慣から、鞄の中には折りたたみ傘がひっそり眠っている。台風だったら反応はもっと違ったかも知れないが、通り雨くらいではさしたる問題も感じなくなっていた。
彼女も別にその事実を心から伝えたかったわけではないのだろう、
「もしかして、結構前から来ていた?」
テーブルの上のすでに空になったコーヒーカップ、会社のラップトップ、それにいくつかのファイルが置かれてちょっとしたオフィスの様相を呈しているのをみて、眉を顰めた。俺は力なく笑った。
土曜日の昼下がりである。休日であっても次から次に湧いて出る内勤業務に際限はなく、腹立たしいことに金曜の19時に連絡がきて月曜の朝イチに提出で、なんて案件もざらだ。家で片付けるのも会社に赴くのも気が乗らなかったので、約束の時間より早くきて仕事を片付けていたのだった。テーブルの上を片付けながらそう言うと、葛葉は呆れ顔を作った。ごめん、と頭を下げると、またそうやってすぐ謝って、と今度は怒った顔を作った。怒らせてしまったことにも謝りそうになり、口をつぐむと、気づいた彼女は悪戯っぽくくすりと笑った。
 
 
葛葉がブレンドコーヒーを注文するのと一緒に、俺もオレンジジュースを注文した。彼女がからかうような視線を投げたのがわかったが、すでに一杯飲んでいるし、さすがに週末くらいはカフェインを控えめにしようと思ってのことだ。
注文の品がテーブルに置かれると、俺は近況報告を中断して、荷物入れから取り出した紙袋を彼女に差し出した。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「一応、俺と一二三から。選んだのは一二三で、俺は金を半分払っただけだけど…」
「わざわざ言わなくていいのに」
彼女は苦笑しながら受け取り、中を覗き込んだ。プレゼントを確認したというよりも、そっと添えられている封筒を確認したという意味合いの方が強かった。それは一二三からの手紙だった。
 
 
幼馴染が俺と一二三のふたりだけであったのなら、世界はもっとシンプルだっただろうと思う。
葛葉は生まれた時から俺の隣の家に住んでいて、同い年で、母親同士も仲がよかった。兄妹のように育ったところに一二三が加わり、気づけば俺の思春期の日常は、どこで切り取っても3人でいる絵になっていた。
心は体よりも先に成長するもので、高校に入ってから明らかに彼女の一二三に対する視線は温度を変えていった。俺が気づけた位だから、もちろん一二三だって気がついた。どうなることかと思ったが、戸惑う一二三もまた、彼女を見つめる表情の色を少しずつ変えていった。俺にしては珍しく、不思議と嫌な気持ちは沸き起こらなかった。ネガティブな感情が介入するには、あまりにも自然な流れ過ぎたのだと思う。
例の事件が起きたのは、残酷にもそのさなかだった。葛葉を見て恐怖に顔を歪め、泣き叫ぶ一二三を胸元にかばいながら、俺は彼女の顔が絶望に染まっていくのを見ていた。
こうして彼らは自分たちの孕んだ感情の輪郭もわからないまま、羽化させる機会を永遠に失ったのだ。
 
 
いつだったか、自分が男だったらよかったと葛葉が零したことがある。節目節目で彼女から一二三へのプレゼントを、そして一二三から彼女へのプレゼントを俺が仲介するようになってからだから、(つまり、一二三が女性のことを考えて、しかも贈り物を選んだり手紙をしたためたりすることができるまでに回復してからのことだから)そう前の話ではない。
麻天狼が先のラップバトルに優勝した時も、彼女はお祝いを贈りたいと俺を呼び出した。その時は、日本全国名産グルメのお取り寄せカタログだった。ステーキ肉とか、もつ鍋セットとか、かにすきセットとか、家で調理するタイプのやつだ。寂雷先生も招いて、俺たちの家でよく食事会が開かれていることは、彼女も知っていた。全員が全員それぞれの事情で旅行もままならないことを慮ってのこともあったのだろう。素直に彼女の心遣いに感謝したが、ずっしり重い冊子を手渡された時には、さすがにこれは郵送でもよかったんじゃないかという気持ちが過ぎった。でも口にはできなかった。直接会う最後の口実を失いたくなかったからだ。
とはいえ、今だってスーツという手段に頼れば、3人で顔を合わせることは可能ではあった。誰もが気づいていて、しかし誰も口にしなかった唯一の選択肢だ。一二三はいつか彼女と普段着で再会することを望んでいた。彼女は正装の一二三を一二三だと認めなかった。俺はといえば、血反吐を吐きながら足掻いて、それでも前を向こうとする一二三の姿が、直接的であれ間接的であれ否定されるのは我慢できなかったし、彼女が傷をさらに深くするのだって見たくもなかった。
なんにせよ、彼女は男になりたかったと語った。そうすれば一二三と独歩とずっと一緒にいれたのに、と。
その時感じた違和感を、俺はうまく説明することができない。
 
 
「そういえば」
紙袋を空いている席に置きながら、彼女が急に口を開いた。
「頼まれていた、あの子のことなんだけど」
彼女は唇をいったん引き結んだ。俺の顔がこわばったのを見たからだった。
「そろそろ、居場所がわかりそうよ」
「本当か?」
「たぶん。女子高校生のネットワークって、意外と息が長いのね。びっくりしちゃった」
俺と一二三とは別の、しいて言うなら性格的な理由で、まったくと言っていいほど同窓会に顔を出していなかった彼女は俺の依頼に対して当初は露骨に難色を示した。しかも対象が対象である。彼女は俺達とは比にならないくらいにあの子のことを憎んでいた。
「でもね、居場所がわかったからって、会えるかどうかわからないよ」
「どういう意味だ?」
「うーん…まぁ、まだ不確かな情報だから、やっぱりもうちょっと待ってて」
「…わかった」
一二三があの子に会いたがっているからと理由を伝えた時、葛葉はものすごく困惑した表情を浮かべた。俺と同じで、彼らが相対することで事態がむしろ悪化することを恐れたのかと思ったが、そういうわけではないようだった。
一二三は変わったんだね。
呟いた彼女は、どこかさみしそうだったからだ。
 
 
彼女はコーヒーを飲み干し、カップをソーサーのくぼみにかちりと嵌める。今の彼女の顔からも、物憂げな色がなくなることはない。
「きっともうすぐ、俺と一二三と葛葉と3人で会える日が来る」
ふと、言葉がついて出た。彼女は顔を上げた。気休めで口にしたのではない。一二三は少しずつではあるが恐怖を克服しようとしている。確信を持って告げた言葉だ。
3人と言ったが、別に俺がいなくたって一二三と葛葉の2人で会ったっていいのだ。一二三と葛葉があのマンションの一室で、一二三が腕によりをかけて拵えた料理を、2人して囲む。俺なんか入る余地もない。本来はそれが正しい。
なのに俺をじっと見つめる彼女の瞳の中に、強い光をみとめることはできなかった。
「やっぱり独歩はなにもわかってないんだね」
彼女は笑った。俺は息を呑んだ。その笑みがあまりにも穏やかだったからだ。
「壊れたものを繋ぎ合わせて、それで元通りって言えると思う?」
彼女の反語的な言葉は絶望で満ちていて、なのにあっさりと空気を震わせて俺の元に届いた。たとえようもなく無色透明に澄んでいた。
俺は何も言えなかった。ずっと首元を締めつけていた違和感の輪郭を捉えていた。
彼女もまた、違う何かに形を変えようとしているのだった。