晴天

 
 
動いた影ときらめく光を視界の隅で捉えた瞬間、それが自分に向かって来ていることはすぐにわかった。キャバレーグランドでウイスキーの水割りを2杯程飲み、手洗いに立った時だった。人の動く気配を感じるのと、脳が警告を発するのは同時だった。
 
刃物で切りつけられた痛みが右腕を走った。反射的に左手を伸ばすと、ぎゃっ、と鈍い男の声がした。男は刃物を取りこぼし、そのまま通路にしゃがみこむ。明らかに素人だった。
 
その狼藉者は騒ぎを聞いて駆けつけてきた真島ちゃんにあっという間に引っ立てられていった。羽交い締めにされながらも、なにやら叫ぶ声がホールの空気を震わせていたのを覚えている。俺はといえば、狼狽する店長に連れられて殺風景な事務室に向かった。すっかり酔いも醒めてしまっていた。
 
傷からは血が出ていたが、縫う程ではなく、止血をしてしまうと手持ち無沙汰になった。刃物に何かが仕込んであったとしたら厄介だが、あの様子ではそんな知恵や余裕のある器には見えなかった。傷よりも、最近新調したばかりのスーツを御釈迦にされたことの方に苛立ちは向いていた。
 
お世辞にも座り心地のいいとは言えないソファで煙草を燻らせていると、真島ちゃんが蒼白で駆け込んできた。寛いでいる俺を見て安堵の色が浮かぶのがわかったが、すぐさま、すみませんでした、と強張った表情で頭を下げる。
 
ま、ここで俺に死なれたら、極道に戻る道どころか命すら絶たれちゃうからね。
どんな言葉でいたぶってやろうか考えを巡らせていると、男臭い事務室に似つかわしくないスパンコールのイエローが視界をちらついた。パーテーションの向こう側から、女が泣きそうな顔をしてこちらを覗いているのだった。名前は思い出せなかったが、さっきまで隣で俺の相手をしていた女だった。
 
「どうしたの、姉ちゃん」
 
女はおずおずと近づくと、
 
「その傷、わたしを庇って…」
 
いよいよ涙を零しながら頭を深々と下げる。ああ、と俺は気の抜けた声で呟いた。避けたら刃物がこの女に突き刺さっていたのは事実だった。かといって庇ったわけではなく、ただの間合いとタイミングの問題でしかなかったが、特に正す必要性もないので俺は笑った。美人に礼を言われるのに悪い気はしない。せっかくだし貰っとこう、ってな精神だ。真島ちゃんが白けた表情を浮かべたのが気配でわかった(こっそり、俺に見えない方向に顔を背けていたので)。
 
そんな俺の心の内も知らず女は、早く救急車を、と切迫した声を出す。俺は声をあげて笑った。
 
「こんなの、傷のうちに入らねぇよ」
 
しかし女の顔に血の気が戻る様子はない。ぴんと閃いたことがあって、俺は立ち上がった。
 
「わかった。じゃあちょっとこれから付き合ってよ」
 
女はきょとんとした顔で俺を見上げた。
 
「スーツを仕立て直すからついてきてよ。そんで飯でも食ってさ。その後、怪我が大したことないって証明してやるよ」
 
曲がりなりにも夜の世界に身をおいている女だ。言わんとしていることにすぐさま気づき、顔を赤らめた。
おい待てや、と真島ちゃんが声を上げる。見れば、険しい視線とかちあった。従業員の女がヤクザの手付きになるのは見過ごせないと睨みつけていた。こういうところが、カタギの方が合っていると言われる所以なのだ。もちろん、真島ちゃんは認めないだろうが。
 
「あの男、どうなったの?」
 
突然の話題転換に面食らいつつも、真島ちゃんは素直に、「倉庫に転がしとる」とぼそりと言った。
 
「後で若いもんに引き取りに来させるから。それまでちゃんと見張っててよ?俺を刺させた上に逃したとあっちゃ、とんだ責任モンだぜ、支配人さん」
 
ひらひらと手を振り、女の肩を抱く。
成す術もなく歯噛みする真島ちゃんの顔は、それはそれは愉快だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なんでこんなことを思い出すんだろう。去っていく真島ちゃんの背中を見ながら思う。見れば見るほどヘンテコな、パイソン柄のジャケット。
 
あの時、刃物を構えて突進してきた男は、真島ちゃんに取り押さえられながら矢継ぎ早に罵詈雑言を喚き立てていた。それはどうやら俺に向けられた言葉のようだった。当時意識を少しだけ向けたが、まったく心当たりがなかった。
もちろん、濡れ衣だったわけではなかった。その所業はたしかに自分がしてきたことのひとつではあった。ただ、記憶に残るものではなかった。つまり最凶からは程遠く、日常的に行われていたものだったということだ。その所為で男の名前どころか、どこの誰かもいまだに思い出せない。そのことを俺は真島ちゃんに伝えただろうか。あの女にも、伝えただろうか。
 
そう、女だ。
あの日の夜、あまりに俺が腕の傷に頓着しないので、死んでしまいますよ、と怯えた、しかしどこか叱責の交じる口調で繰り返し言った女。
 
どういう流れでそうなったのかさっぱり思い出せないが、女は死ぬのが怖いと言った。自分が一人で死んだ後、世界が変わらず回り続けるのを想像すると辛い。自分が世界になんの影響も及ぼさない存在であることを実感するのが嫌だ、と。
それは死が怖いというのとはまた別の話ではないかと思ったのだが、言及はしなかった。よっぽどこの女は生きるのが楽しいのだろうな、と思ったくらいだった。死ぬのが怖かったら極道なんてやっていられない。
何と返答したかはもはや思い出せなかった。思い出す時間はなさそうだった。
今ならもっと気の利いた返しができたかもね。
そう思いこそすれ、別段後悔はなかった。