キャンディーピンク

 来シーズンのコレクションのラフ画をメールで送付して、パソコンの電源を切った途端、誰かとごはん食べたいなあ、と思った。お腹が空いたなあでも、誰それに会いたいなあでもない。誰かとごはん食べたいなあ、だった。空間と時間と胃袋、そのすべてを埋めてくれなければならない。
 真っ先に浮かんだのは幻太郎と帝統だったけれど、どちらからもラインの返事は返ってこなかった。幻太郎は気分に任せて平気で返事を返さなかったりするし、帝統は野宿続きなのでしょっちゅうスマホの充電が死ぬ。僕に何かあったらどうするつもりなのさ、と口を尖らせていると、見計らったかのように着信音が鳴った。”おねーさん”の一人だった。運良く、怖くないほうの。
 空間と時間と胃袋を埋めるところに性欲が加わっても、特に一大事だとは思わなかった。



 ガイエンマエのちょっといいイタリアンレストランは、そのおねーさんの行きつけだった。ちょっと奥のテーブル席で、聞いてよ乱数ちゃんあの人ったらひどいのよから始まる会話も、すっかり慣れたものだった。
 えーひどーい、君のことなーんにもわかってないじゃん、などと相槌をうっていれば、料理はどんどん運ばれてくる。アンティパストの前菜の盛り合わせ、プリモピアットのトマトパスタ、セコンドピアットにメカジキのパン粉焼きと仔羊のソテー、デザートのティラミス。グラスの中身もシャンパンから始まって白ワイン、赤ワイン、最後にはエスプレッソと、身振り手振りで彼氏の悪行を語るおねーさんの表情のように目まぐるしく変わった。
 アルコールのなみなみと注がれたおねーさんのグラスを眺める。食事の時にリップをつけるのが嫌いなおねーさんのグラスは、縁がどこも汚れていない。なんでも、グラスやカップにべったりとリップがつくのが嫌いなのだそうだ。最近は色移りしにくいのもあるよと教えてあげたけれど、それでもやっぱりだめなのだそうだ。料理を口に入れた後もナプキンで口を拭ってから飲み物を口に運ぶので、料理の油染みも残らない。
 リップをつけたおねーさんの唇に食べ物が入っていくところも、グラスについたリップも、やらしくて好きなので、そこだけちょっと残念だな、と僕は思う。熱い息を吐き、ホテルの広いベッドで仰向けになってからも、なぜか同じことを思い出した。
 おねーさんは僕を抱きしめながらぼうっとしていた。ふわふわの髪の毛が頬に触れている。乱数ちゃん寝ちゃった?と左上の方から声が降ってきて、僕は咄嗟に目を瞑った。天井に鏡が張ってあったので、おねーさんは気付いていたかもしれない。それでも、あのね、とおねーさんは呟いた。
「あのね、この前、彼と旅行に行ったの」
 僕の返事がないのも構わず、おねーさんは喋り続ける。
「一日目はなんともなかったんだけど、二日目は雨が降って、予定が全部キャンセルになっちゃったの。天気予報を見ておけばよかった。でもせっかく来たんだしなにか雨でもできることを探してみるよ、って彼は言ってくれたわ。ここはちょっと遠すぎるなとか、ここは高すぎるなとか、ここはつまらなそうだなとか、スマホを見ながらいろいろ探してくれたの。これどう思う、とか、途中で聞いてくれたりしてね」
 頭に奇妙な動きを感じた。たぶん、おねーさんが僕の髪をいじっていたのだと思う。指先で毛の束を巻き取ったり、頭に顔を埋めたり。
 狸寝入りを告白した方がいいかなという迷いは、少し前からなくなっていた。うそから出たまこと。眠りの泥が、目の前を覆い始めていた。
 泥の帳の向こうで、おねーさんは喋り続けている。でもわたしね。
 でもわたしね、正直ずっとうんざりしてたの。雨が降った時点で、彼に別の予定なんて見つけられるはずないって、わたしわかってたの。わたしの顔色ばかり伺って、彼一人では何も決められないから。
 そしてね、ちょっと前だったら、そんな優柔不断な彼が愛おしくて堪らなかったのよ。何もやることがなくても一緒にいられるだけで嬉しかった。彼が困っていてもなんとも思わなかった。これが愛なんだと思った。
 幸せ、だったのよ。



 おはよう乱数ちゃん、と言って、おねーさんはにっこりと笑った。昨夜散々悪態をついたり、ワイングラスをかぱかぱ干したり、僕の下で乱れたりしたのと同じ人間だとはとても思えなかった。寝起きでぼんやりする僕をぎゅうと抱きしめたかと思えば、てきぱきとシャワーを浴びて、きびきびと身支度を整える。
 僕はベッドに寝転びながら、おねーさんがファンデーションやハイライトやチーク、マスカラやなんかをせっせとのせていく様子をじっと眺めていた。ここのブランドの使ってるんだとか、そんな使い方するんだ、なんて感心したりしながら。おねーさんたちと過ごす夜と同じくらい、もしかしたらそれ以上に、おねーさんが化粧をしているのを見る朝が好きだった。気怠さの余韻を孕んだ、健康的な一日の始まり。
 最後にバーガンディーのリップをつけようとしたところで、ちょっと待って、と僕はベッドからぴょんと飛び降りた。ショルダーバッグからあるものを取り出す。なんかのキャンペーンでどこかのアーティストとコラボで作ったリップだった。鞄に入れたまま放置していたのを、ふと思い出したのだった。
「かわいい色。乱数ちゃんの髪の色だ」
 つけてあげるよ、と言って、僕は彼女の唇にそっとリップを引いた。
 彼女は鏡を覗くと、ちょっとつけすぎじゃない?と言って、僕の顔を両手で覆い、ぐいと引き寄せて、頬に唇を押し付けてきた。彼女の肩越しの鏡に、ピンクのキスマークをタトゥーみたいにつけた僕が映る。
「どう?似合ってる?」
 そういえば、彼女は例の”彼”とはどうなったのだろう、と思った。あるいは、どうすることに決めたのだろう、と。話半分に聞いていたことをほんの少しだけ後悔した。
「ねえ、どう?」
 女は繰り返す。僕も彼女も、答えは最初からわかっていた。