Perfect Strangers



※動物実験の描写がありますので、ご注意ください。


  その政府直属の研究所は行政区の中にあって、新兵器の開発とクローン研究を二軸としていた。政府が手掛ける事業として前者はまあわかるとして、なぜクローン研究なのか。入所時に上司に何度か尋ねたけれども、結局わからずじまいだった。理解する必要性が生まれなかった、と言った方がいいかもしれない。そのどちらの研究チームにも、私は配属にならなかった。
 私は研究所の片隅にラボを構えている。花形の研究チームから離れて何をしているかといえば、戦時のどさくさに紛れて無秩序に手がけられた研究の後処理をしている。リストを作ってみて目を瞠ったが、実に膨大な量の研究が眠っていた。維持したり発展させる余力はないが、廃棄は惜しい。最低限の労力と費用でまとめてほしいという、つまりはそういうことなのだった。
 一人の時、あるいはファイルをまとめながら、産業廃棄物処理班ね、とたまに自分を形容してみたりする。誰かに伝える必要のない言葉だ。
 最近取り組んでいるのは、コールドスリープ技術の追加実験だった。ちょっと前までは動物に人間並みの知能をもたせる研究のまとめをやっていた。すぐ頓挫したのか、そちらの方は1GBにも満たないディスクに収まってすぐに終わった。往年のSF映画を一本ずつ見させられているような心地だった。
 コールドスリープ技術は、その研究と比べるとますます戦争に役立つとは思えなかった。高官やその家族が不治の病で、解決策を未来に託したくて、戦時の混乱に紛れてこっそり研究員に依頼した、なんて妄想を繰り広げてもみたけれど、想像力がないのでそれ以上の選択肢は思いつかなかった。
 たいそれた名称とは裏腹にやることは至って単純で、まず大きな冷凍庫のような設備を開けて、中に眠っている実験体を取り出し、プロトコルに従って正常に起きるか確認する。ただその繰り返しだった。予想通り、というか、期待はずれ、というべきかわからないが、今のところ動き出したケースはない。
 定期報告で上司も別段残念がる様子もなかったので、私と同じスタンスなのだとすぐに知れた。上司は都度、実験体があと何体残っているかを確認した。あの冷凍庫が空けば、より多くのクローン胚の保存が可能になり、大量生産が可能になる、と彼は言った。




 比喩表現でなく本当の意味で日の当たらないラボの扉がノックされるのを聞いたのは、確か7月くらいだったと思う。
 上司ですら基本的にこの部屋を訪ねたことがなかったので、幾分驚いて振り返ると、ピンク色の頭の少年が扉を開けたところだった。
「あれ、検査室ってここじゃないの?」
 この場に似つかわしくない、少年の溌剌とした声が壁に響いた。
「違うよ」
「何してるの?」
 違うと言ったにも関わらず、少年は無遠慮にひょこひょことこちらにやってきて、実験台の上の私の手元を無遠慮に覗き込んだ。
「それ、死んでるの?」
 私の手元の容器では、犬が眠っていた。正確に言えばそのビーグル犬は蘇生液に浸されていて、さらに正確に言うなら60分蘇生液に浸す工程をちょうどはじめたばかりだった。わからない、と私は正直に答えた。
 少年は液体に浸されたビーグル犬をしばらくの間じっとみていたけれど、ぴくりとも動かない犬に飽きたのか、しばらくしてこちらを見上げた。
 透き通った緑色の目と視線が合う。
「たぶん、君の検査の場所は、出て左の方だと思う。研究棟が違うよ」
 なんとなく気まずくなってそう言うと、少年は少し残念そうな顔をした。
「また来てもいい?」
「……好きにすれば」
 少年が扉を閉めてしまってから、自分の言った言葉の意味がわからなくて、私はしばらく頭を捻る羽目になる。




 以来、ピンク色の髪の少年は毎日のように私のラボに来るようになった。何が面白いのか、私がキーボードを叩いたり、解凍液や蘇生液を調合したり、冷凍庫から哀れな実験体を出し入れするのを、灰色の実験椅子に座って黙って眺めていた。
 何しているの、とか、それは何、とか、最初こそ飽くなき探究心でひっきりなしに質問を投げかけてきたけれど、やっていることが単純作業の繰り返しだとわかった途端、何も言わなくなった。意外と聞き分けのいい子供なのだった。しかし少年の来訪が止むこともなかった。毎日つまらなそうに実験椅子をくるくる回す少年の姿は、いつしか私の日常に馴染んだ。
 もちろん、私だって馬鹿ではないので、こんな国家重要機密の研究施設に一般の少年が紛れ込むはずのないことはわかっている。おそらくクローン研究の何かだろう。同僚に確認しても良かったのだけれど、そうすれば高確率で彼は私のラボに来れなくなってしまう気がする。そうなってもなんの支障もないけれど、面倒事はごめんだった。だから、知らなかった、というには白々しいが、少なくとも向こうから何か言われるまでは黙っておこう、とずるい大人である私は決めている。




 その日も少年がラボに来た時、私は実験体を冷凍庫から取り出すところだった。身体中の水分を失ってぺたんこになった実験体を、解凍液に浸して60分、蘇生液に浸して60分。その日は猫だった。テレビで見たことがあるが、名前を思い出せなかったので、待ち時間にネットで調べた。全身白で顔と耳と手足と尾が黒い、長毛の猫。ヒマラヤンだった。
 そういえば、実験体たちは動物種も品種も様々だった。猫も珍しくはなかったけれど、高級そうな猫は今回初めてだったので、名前と平均購入価格を見た時には驚いた。最近数字を習い始めているという少年は、眉をしかめてゼロの数を数えていた。
 今日まで、完全に蘇生するものは一体もいなかった。それでも、犬よりは猫の方があと少しというところまで動き出す確率が高かったので、すでにその時私は少し期待をしていた。
 蘇生液に浸してから50分後、ぴくりとひげが動いた、ような気がした。少しすると今度は耳が動いて、口元から大きな空気の塊がこぼれた。慌てて容器から取り出し、実験台の上に置く。するとそれは小さく、しかしはっきりと、にゃあ、と声を上げたのだった。
 柄にもなく興奮して、思わず手を伸ばして抱き上げようとしたら、無情にもシャッと威嚇の声が上がった。なるほど、自分をひどい目に合わせた奴らの仲間はわかるわけである。こちらを睨みつける様子は、まるで抗議をしているかのようで、本当に猫というのは賢い。
 微妙な気持ちになっていると、実験椅子から降りた少年がいつのまにか実験台まで来ていて、私の代わりに猫に手を差し伸べていた。爪や牙は飛んでこなかった。少年がずぶ濡れの猫を持ち上げると、ぱたぱたと水滴が落ちて、慌ててタオルで包んでやる。面白そうに猫を眺める少年とは対照的に、後ろめたいものを抱えている私は、いつひっかかれてもおかしくない、という緊張感を終始感じている。
「すごいね」
 少年があまりに素直に言うので、私もつられて、そうだね、と頷いていた。
 少年がドライヤーで猫を乾かしている間、私は紅茶を淹れてクッキーの缶を戸棚から出した。かつてPC作業の時に常にかじっていたおやつだ。少年が来るようになってから、クローンに食べさせていいものかわからず、かといって冷酷にひとりで食べるわけにもいかないので、なんとなくしまっておいたのだった。少年は不思議そうに目の前に置かれた市松模様の物体を見ていたが、お祝いだから特別だよ、と言うと、おそるおそる口に運んでいた。そしてあっという間におかわりを要求した。
「他にも起きる子たち、いるかな」
 そうなったらこの部屋、生き物でいっぱいになっちゃうね。少年はとんでもないことを言う。しかし決してありえないことではない。そうなったら上司に対策を相談しなければならない。そういえば、そもそも、あとどんな動物が眠っているか、データが残っておらずよくわかっていなかった。
「人間も凍ってるのかな」
 心を見透かされた気がして、思わず少年を見た。少年は膝に乗せたヒマラヤンを撫でているところだった。
 人間が凍ってるなんて、突拍子のないことを言う。しかし可能性として、ありえなくはないのだ。思わず残りの引き戸を睨みつけてしまう。
「おねーさんは何か凍らせたいものがあるの?」
「凍らせたいもの?」
 なんでそんなことを聞くのか、咎めるより先に口は流れるように動く。
「ないかな」
「じゃあなんでこんなことやってるのさ」
 少年の声はひたすらに直球で無垢で、罪悪感の湧き上がる余地すらない。
「……なんでだっけ」
 最初は、研究者を目指していたような気がする。戦争が始まって、終わって、いろいろあって、気づいたらこんなところにいた。
 気づかなかったというわけではないが、最近取り扱う研究は、間違っても外部に出せないようなものばかりだ。きっと私は、もう中王区から外に出ることはないのだろう。
「なんでだっけ」
 少年がクッキーを齧る。いつの間にか少年の膝から逃れた猫は、部屋の隅からこちらを睨みつけている。




 翌日、珍しく上司がラボにやって来た。上司は、扉を閉めるなり、クローンに餌付けしたらだめだろうが、と呆れたように言った。やはりあの子はクローンだったのだという事実と、クローン技術が現実化していたという衝撃、そして貴重な実験体である彼がここへの来訪が容認されていた事実がいっしょくたに押し寄せて、戸惑いながら、すみませんでした、と頭を下げた。上司は上司で、まあ問題はなかったからいいけどよ、とそれ以上叱責する様子もなくラボをぐるりと見渡す。そして部屋の隅の籠で丸くなっている生き物を見つけて、目を細くした。
「蘇生したのか」
「はい」
「戦時中の技術も捨てたもんじゃねえな。クローンを眠らせておくのにも使えるかもしれない」
「そうですね」
 会話は続かない。普段定期報告でくらいしか顔を合わせることのない関係なので、当然といえば当然だった。私の方の居心地の悪さは最高潮だったが、上司の方はなぜか立ち去る様子も、クローンへの取り扱いに対する勧告を続ける素振りも見せなかった。
 何をしているのだろうと思えば、ずっと猫を眺めているのだった。近づくことも、手をのばすこともなく、ただ遠巻きに眺めている。
「知り合いですか?」
 言うべき言葉が見つからない私は、咄嗟に胸に浮かんだ言葉を択ぶ。案の定上司は、彼特有の人を小馬鹿にした笑みをとりわけ濃くしたようなものを浮かべて、空気を鼻から吹き出した。
「猫に知り合いか。そいつぁいいや」
 はぐらかされたのだと理解することは、そう難しくなかった。
 上司は最後に、可愛がってやってくれ、と言い残してラボを出ていった。時間にして5分にも満たない、短時間の来訪だった。




 珍しく猫が足元に寄ってきたので、おそるおそる撫でていると、件の少年がやって来た。私は少し疲れたような気持ちになった。研究チームに怒られはしなかったのだろうか。よく考えたら、もし猫の毛がなにかよくない作用をもたらしたりなどしたら、今度こそ私の首も飛びかねないのだった。クローンが何体いるのかわからないが、一体二体駄目にしてもOKというような代物でもないだろう。
 こちらの心配など知ったふうもなく、少年は至って普通にヒマラヤンの元に屈み込み、その体をやすやすと抱き上げる。猫は眠そうに、されるがまま軟体生物のように体を伸ばされている。猫は液体、という言葉が頭をよぎる。
「きみ、猫が似合うね」
「そう?」
「うん。何ていうか、きみ猫っぽい」
「それって、喜んでいいの?」
「え、うーん。どうだろうね」
「おねーさんは猫、好き?」
「うん」
「じゃあ、嬉しいかな」
 床に座り込み、膝に猫を乗せた少年は、にっこりと笑う。
「きみは将来女たらしになりそうだね」
「女たらし?」
「女性の言って欲しいことがわかる男ってこと」
 嘘ではないが真実でもない私の言葉に、無垢な少年は、へえ、と瞬きをしてみせた。そして、女たらしね、と繰り返す。それがあまりになにか大切なものを扱うような様子なので、少しだけ気まずさがこみ上げる。
 誤魔化すように、少年の頭を撫でる。
「私と君とこの猫の3人で、ここから逃げようか」
 思いつきではなく、昨日から囚われていた考えだった。その証拠に、少し変な声になった。喉はなぜかからからに乾いていた。
 しかし少年はきょとんとした顔で、なんで、と首を傾げた。薄緋色の髪に、透き通る緑の瞳。よく見れば、腕や首にたくさんの注射痕や、止血帯のようなもので圧迫された痕がある。
 私は少年の髪から手を離す。
「……そういう時は一緒に逃げようって言うんだよ」
「それが女の人の言って欲しいことってこと?」
「……たぶんね」
「逃げたらどうなるの?」
「そうねぇ」
 私は少し考えて、
「まず、素敵な服を買おう。もっと色とりどりのかわいい服。それでカフェに行って、フルーツパフェを食べて、アールグレイを飲もう。それで小さなアパートを借りて、布団を並べて敷いて、夜は一緒に川の字になって眠ろう。起きたら、また街に出て、同じことをする」
溜め込んでいた重苦しいものを吐き出すように、まくしたてた。相変わらず少年はきょとんとした顔をしている。それの何が楽しいの、と見開かれた目が語っている。
 私はまず、この研究所の外にどういう服があるのか、カフェがなんなのか、パフェがなんなのか、少年に説明してあげなければならない、と思った。少年の第一印象の通り、確かにそんなに楽しいものではないかもしれない。学生時代はそれこそ二、三回もやったらもう飽きて別の遊びを探していたようにも思う。それでも、少なくとも彼だけでも、そんな一日を誰かと過ごしてほしいと思ったのだった。色彩に溢れた服を来て、抱えきれないショッピングバッグを持ってピンク色の髪の少年が道を駆ける。通り過ぎた建物の、日の当たる屋上で、猫が伸びをする。多分、それが正しい。
 不思議そうに首を傾げる少年に、夢のように遠い別世界の未来について、私は語った。